【「全部学校でできます」を、私は信用しない】

英語もやります。グローバル教育です。ネイティブの先生もいます。留学制度もあります。数学の補習も、自習室も、チューターもあります。ICTも充実しています。部活も本気でやります。施設もそろっています。受験対策まで学校で完結するので、塾に行く必要はありません。
私立中学校の説明を聞いていると、こういう話に出会うことがあります。
親からすれば魅力的でしょう。あちこち探して通わせなくても、一か所で全部済む。学校に任せておけば安心。忙しい家庭ほど、そう思いたくなるのも分かります。
でも、私はむしろ警戒します。
それぞれの制度や設備が「ある」ことと、それが一人ひとりに必要な水準で「機能する」ことは違うからです。
英語が得意な子と苦手な子。部活を本気でやりたい子と、受験勉強に時間を使いたい子。集団の中で伸びる子と、個別の説明や練習が必要な子。同じ学校に通っていても、求めているものは違います。
その全部に、誰が、いつ、どこまで対応するのか。時間も人も予算も限られる中で、何を優先するのか。そこを聞かずに「何でもできます」という説明だけでは、学校を勧められません。
留学制度があっても、費用が学費に含まれているとは限らない。自習室があっても、その子に必要な指導が受けられるとは限らない。チューターがいても、いつでも、どの教科でも、必要なだけ対応してくれるとは限らない。
「あります」と「あなたが期待する形で使えます」の間には、かなり距離があります。
私は『志望校は校長で選びなさい』という本でも学校を取材してきましたが、信頼できるのは、できることだけでなく、できないことも説明してくれる人です。
何を大切にしていて、何には対応していないのか。学校が担うところと、家庭や外部の力を借りてほしいところはどこなのか。そういう境界を説明できる方が、誠実だと思っています。
これは、学校選びに限りません。
今回、自分で選挙に出てみても、似たことを考えました。「これを実現します」と言うなら、誰の権限で、誰と協力し、どんな手順で実現するのか。自分で決められることなのか、要望することなのか、交渉が必要なのか。
そこを説明せず、望まれそうなものを並べるだけなら、学校案内でも選挙公報でも、見るべきところは同じです。
書いてある項目の多さより、その言葉を実行する仕組みを見る。選ぶ側にも、その視点は必要でしょう。
そして、もう一つ気になるのが、一か所に全部を集めることの危うさです。
日常では、目的によってサービスを使い分けます。銀行口座を用途で分ける人もいるし、仕事でも生活でも、複数のアプリや道具を組み合わせる。一つですべてを済ませるより、自分に合うものを選んで使っているはずです。
ところが学校選びになると、なぜか「ここに入れば全部大丈夫」が強い魅力になる。
もちろん、一か所にまとまっていることには利点があります。移動が少なく、連絡もしやすい。家庭の時間や負担を減らすことも、大切な価値です。
ただ、親にとって管理しやすいことと、子どもにとって最も合っていることは、いつも一致するわけではありません。
英語も、勉強も、スポーツも、友人関係も、相談相手も、全部同じ学校の中にある。その学校で何かが起きて、足が向かなくなったらどうなるでしょうか。
嫌だったのは一人の先生との関係かもしれない。クラスでの出来事かもしれない。部活の中の問題かもしれない。それなのに、一つの場所に行けなくなることで、ほかの活動や人との関係まで届かなくなってしまう。
一か所で済むことの便利さが、そのまま一か所に依存する危うさにもなるわけです。
先日、不登校の子どもが学校の健康診断を受けられていないというニュースを読みました。学校に行けないことで、学習だけでなく、健康を確認する機会まで途切れてしまう。
学校に多くの機能を集める仕組みは、そこに通える人にとっては便利です。でも、通えなくなったときの別の道も必要です。
だから私は、学校の外にも、学ぶ場所、スポーツをする場所、相談できる人、友人と過ごす場所があった方がいいと思っています。
学校は大切な場所です。ただ、その子の世界のすべてである必要はない。
学校で受けられるものは受ける。足りないものは外で補う。本気で取り組みたいことは、その子に合う場を探す。合わなくなったときには、別の関係や場所が残っている。
すべての家庭に、塾もクラブも習い事も増やせと言いたいわけではありません。お金も移動も必要です。だからこそ、地域の中に、学校とは違う入口をつくる意味があるのだと思います。
寺子屋みぃめい庵も、フラッグも、私にとってはその一つです。
学校では足りない計算の練習をする。学年を戻って、必要なところから取り組む。別の年齢の子と関わる。学校とは違う役割で、自分の力を出してみる。
フラッグでは、同じ子でも、立つ位置、組む相手、担う役割によって動きが変わります。速く走れることが生きる場面もあれば、相手の動きを見られることが生きる場面もある。
「この子には力がない」と決める前に、どこに置き、誰と組み、何を任せるかを考える。勉強でも、地域の仕組みでも、私が考えているのは似たようなことです。
配置を変えることは、誰かのせいにして待つことではありません。今ある条件を見て、自分たちがどう動くかを考えることです。
アメフトでも、相手の選手や資金力を嘆いていて試合は進みません。相手がこうで、自分たちはこう。では、どう配置し、どう動くか。その条件の中で考えるしかない。
八丈島でも同じでしょう。人や施設が限られるなら、何を島の中で担い、何を外とつなぐのか。教育、医療、福祉を、それぞれ独立した箱として置くだけでなく、一人の生活を支えるために組み合わせる。
一か所に全部あることと、一人に必要なものが届くことは違います。
「何でもあります」と言うより、何ができて、何が足りず、誰とつながれば補えるのかを説明できること。その方が、学校も地域も信頼できると思います。
全部を一つに任せるより、自分に必要なものを選んで組み合わせる。そのための判断力と、つながりを持つ。
学校選びも、町のこれからも、そこから考えたいと思っています。
【参考記事】
「健康診断、不登校の子に配慮を=文科省などに対策要請―総務省」


